紀州(和歌山市)紺屋町に生まれる。名は隆。字は隆年。医師、野呂方紿の第五子として生まれ、第五倫の人となりを慕い、後に第五隆と改名した。号は清明・混済・矮梅。幼時、紀州藩の儒者、伊藤蘭嵎に就いて儒学を修め、14歳のときに上京して、長崎派の画家、黄檗鶴亭に墨竹を学んだ。21歳のとき、池大雅の門下となり山水画を学び、また清の伊孚九に私淑した。1793(寛政5)年から紀州藩に仕出し、後半生を紀州藩士として仕えた。別に四碧齋の号があるが、これは紀州治宝侯が彼の描いた那智山図を見て、嘆賞のあまり「山色四時碧」の一行物を下賜したことを記念したものである。桑山玉洲を兄事と随っていた介石、玉洲と共に紀州南画界の双璧を成す存在である。

〈田辺市立美術館資料をベースにして作成〉

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