保田龍門 1954(昭和29年) 63才頃
紀州富士といわれる龍門山の麓、那賀郡龍門村(現 紀の川市粉河)に生まれた保田龍門(本名 重右衛門)は地元の荒見高等小学校、県立粉河中学校を卒業後、東京美術学校西洋科を卒業。美校在学中から彫刻を研究 日本近代彫塑の主流というべき荻原碌山(守衛)を嗣ぐ、日本美術院彫刻部の主要作家のひとりとなる。またパリでブールデルやマイヨールに師事して、女性像にきびしい造形探求をおし進めると同時に、ロマンティシズムの薫り高い作品を生み出した。また初期の絵画にはクラシックな表現に裏打ちされながらも大正期のリベラルな息吹きを感じる作品群を生み出している。西洋の感性と日本人としての感情の相克に苦しみながら近代日本洋画、彫刻の道を真摯に探求した郷土和歌山が誇る代表する作家のひとりである。(平塚美術館図録をベースに)
日本神話 絵解き三巻 (巻頭見開き)
1943年〜1944年(昭和18〜19年)龍門52〜53才。物資統制のため絵具など入手困難となる。生活困窮、生活苦、マイヨール、ロダンの小品彫刻を米麦にかえる。郷里のミカン山に芋を植える。長女英子は女学校より動員、長男春彦も軍事工場に動員される。工場空襲の中を逃げ廻って真っ黒にすすけて帰ってくる。翌日は、草の入ったパンを喜び又出可けていく。(保田龍門自筆年譜より)--そんな中での精魂を込めた長巻。
せいたか・こんがら二童子図 水彩 46×34.5cm
龍門山 8F
仰臥女(ブロンズ) H15cm 1945〜1955年
裸婦立像(ブロンズ) H61cm 1924年